雛の間




五七五の俳句をはじめて作ったのは、確か、高校生の時。
今となっては、どんな句だったのか全く分からないが、父がその句を見て無言だったのは記憶している。
歳時記風な表現をすると、印刷物に残っている最初の句は、

    雪原や今日を最後の陸蒸気

1975年12月の、職場の句会の会報に掲載された。
その職場は、川口税務署。当時の税務署長半田粒志先生に指導をいただいて俳句を学んだ。
「署長がしているから俳句をするのか」、という視線がなくもなかったが、そんな気持ちで俳句を始めた人は、署長の転勤と同時に句会から去って行った。


そして、公の雑誌に投稿して、最初に入選した句が、

    遠来の客あり雛の間に通す

娘が生まれて、当時はどの家にもあった段飾りを、我が家でも買って、それを田舎の父母に見てもらった時の句だ。
家が狭いので、雛の間と言っても、居間の事で、そこに父母を通したのだった。
公務員を辞めた後、ひょんなことから、小説を書く事になった。
小説は誰にでも書けると言われたからだが、私に書けるのは税務調査に関することだけなので、「国税査察官」という推理風の小説となった。その中に、

    水羊羹青さの残る竹楊枝
    
を登場させた。公私混同というか、自分勝手というか、無理やり自分の俳句を入れて、ひとり嬉しがったものだ。


そんなことがあって四十年。一つの区切りとして、いや、終活のひとつとして、句集にまとめることにした。
記録に残っている五千ほどの句から、八百ほどを取りあえず選び出してみたのだが、あまりにも未熟な句が多いため、半分の四百を切り捨てた。
だが、出来不出来に関係なく、切り捨てる事のできない句があった。それは、父母を詠んだ句だ。この句集の冒頭に十句ほどを並べた。

    遠花火聞こえると云ふ母気丈

そうだったと母を思い出して、自分の句で涙した。

介護という厄介な場面も少なくなかったが、老いた母を他人のように見ることができるようになって、浮かんだ句だ。
反面、父を詠んだ句は少ない。急逝したためでもある。

    通夜終へて無言で入る焚き火の輪
    
当時は自宅で葬儀をしたので、近所の方が通夜の手伝いに来てくれていて、通夜の後、無言で焚き火の輪に入ったのが、父の、記憶らしい記憶だ。
伊豆の大島が噴火して南の空が赤く染まり、寒い夜だった。

新しい分野を知りたいという好奇心で始めた俳句だが、ようやく俳句の味が分かってきた。あと四十年俳句を作れるなら、後世に残るような句をいくつか作ることができるかもしれないが、そんなに長生きはできない。
もし、この句集に続いて第二句集を出すような事になった時、掲載句の数が足りなくなる心配がある。
そこで、ここ数年間に作った俳句は第二句集に回そうかと考えたこともあった。だが、この句集が最初で最後である。

                 薄 井 逸 走


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